年譜

晩年(2000−2004)


2000年 (平成12年) 54歳

3 月, 宇部短期大学教授に昇進. 3 月31-4 月 1日, みづほに会うのを兼ねて家族三人で京都旅行. 国立文楽劇場にて公演を見物. 7 月25日-8 月27日, 卒業論文を準備するみづほを夫とともにのこし, 寛と渡仏. これが最後の里帰りとなる. 9 月3-4 日, 賢人会 (唐津シーサイドホテル).クレールが日本の学会で初めて紹介し, この年 1月に夫が翻訳出版したセガレンの『記憶なき人々』を題材とする研究会であった. 11月, この頃より目の不調をおぼえる. いくつかの眼科医院で診察をうけ, 最後に宇部の寺西医院で検査をうけ,薬をもらう. 若干の軽減はあるものの不調はつづく. 12月, 状況判断や言語による把握の困難, 疲労, 過度の眠気などの不調が現れる.

2001年 (平成13年) 55歳

2 月, 身体の不調 (左手足の不随, 寒気, 活動意欲の減退など) があって, 次第にひどくなるため (車での事故, ハンドバッグや靴の紛失...),日本赤十字山口病院で診察を受け,入院 (20日). 脳腫瘍 (悪性リンパ腫) と診断され,ステロイド剤, 抗癌剤および放射線による治療をうける (主治医: 萬納寺先生). 7月に退院. 月に一度の検査 (CT, MRI)をうけ続ける. 4 月, みづほ, 大阪市立大学大学院修士課程に入学 (東アジア都市文化学科). 7月19-21日, 寛, フランス総領事の前でフランス国籍放棄の署名. そのため寛・夫とともに大阪に行く. みづほも一緒に堺市に宿泊. 7 月26日, 肺炎のために再度山口日赤病院に数日間入院. 8月29日, 賢人会の会員として山口県立大学での近松に関するシンポジウムを聴講. その夕方ルネッサ長門で『用明天皇職人鑑』の上演を見物.

2002年 (平成14年) 56歳

1 月 4日, 鳳翩山を夫と散歩中にポチははぐれてもどらず. 3 月17-18日, 若い世代の文学およびアニメをテーマとする賢人会の合宿 (二日市大観荘).西鉄福岡駅まで寛と夫が同伴. 最後の出席となる. 4 月 5日, 寛, 西南学院大学文学部に入学 (フランス語専攻). 5月, フランスの大統領選挙 (第二次投票) のため, 夫と寛に伴われて大阪のフランス総領事館に行く. 6 月より宇部への通勤には夫が同伴する. 2001年末頃より疑わしい徴候が消えたり現れたりし,山口日赤の他に九州大学付属病院での診察もうけるが, 再発か否かの判断は長い間つかなった. 6 月28日, 再発との判断により結局日赤山口病院に再入院. 8 月より宇部短期大学を休職する. 7 月4-12日, 弟ジャックの元妻であるアンヌ・ド・トナック,フランスから見舞いに来山. 7 月17-25日, 姪 (アンヌとジャックの長女) モード・メゾの来山. 8 月6-14日, 妹セシルとその夫ジャン= ジャック・グロッソの来山. 夏の間みづほも寛も山口にとどまる. 身体はごく少しずつしかし確実に弱っていく. 食欲も次第に衰えていく. 嘔吐, 分節のない大きな声 (これで精神の安定をはかっている, と本人はある看護士に打ち明けたという),会話も乏しくなってゆき, 眠っている時間が長くなる. 夏から冬にかけて, 晴天の日に車椅子で外出. 近くの大内義隆を菩提する龍福寺庭園の木々, 花, 池の静かさを楽しむ. 12月22日, 壽,30年来の友人であるジュリヤン・ガイヤールに「神父として」の来訪を求める. 神, 愛, 希望についての対話.

2003年 (平成15年) 57 歳

1 月20-25日, 弟ジャック・メゾ,ストラスブールより見舞いに来山. しかしクレールはもはやこれを認知せず. 2 月11日, イエズス会の司祭で, かつて山口大学教授であったプロット神父により終油の秘蹟をうける. 2 月22日, 午前 0時 15 分日本赤十字山口病院にて死去. 2 月23日, 18時より自宅にてプロット神父の司会で通夜. 2 月24日, 13時より山口サビエル記念聖堂にて葬儀ミサ・告別式 (司祭: プロット師および同教会主任司祭ヴィタリ師).

2004年 (平成 16年)

1 月15日, 父ジョルジュ死去. 2 月, 『末松クレール論文集』(Recherches sur la littrature franaise)(宇部短期大学末松クレール論文集編集グループ, 代表堀田雅子) 公刊. 11月, 『Claire―人と思い出 』( 編集委員会, 代表堀田雅子) 公刊.