年譜あとがき

末松 壽


   上記年譜中, 知人への言及はすべて実名によったこと, また敬称を省略させて戴いたことをおことわりする.
   なお,完全な忘却によるものは言うまでもなく,いつ・どこで・どのようになどの事情があきらかでないために記載できなかった事項も少なからずあった. 例えばクレールは,1976年12月13日より1977年1月5日まで西新病院に入院し,白藤なる医師の執刀で手術を受けているが,何の病であったのかもはやわからない. 海外渡航についても, 1990年のインド旅行より前,当時同僚であった三根氏の引率する宇部短期大学の旅行団に参加して,フィリッピンを訪れている. 正月をはさむ時期であったことは確かだが,年月日を詳らかにすることはできなかった.またある夏には,フランスの父母や妹らとアルジェリアへの旅行団に参加している. 弟のジャックが建築家として「文民奉仕」(service civil)で,妻娘とともにコンスタンティン(現クァセンティナ)に滞在していた頃であったと思う. さらに,フランスからの帰途にソウルの街を一人で歩いたある冬の日の寒く寂しかったこと,そしてそこでの人々との出会いの嬉しかったこと,これを筆者に語ってくれたこともある. また話は前後するが来日まもないある年の三月,クレールと筆者は与論島に旅行したこともある.船酔いの旅であったが,珍しい熱帯の気候や植生,建築,語彙や習俗を見聞した. 因みにその後飼った猫の一匹は島の言葉でミャンカと呼ばれた.

   記録を作成しながらしかし私は自問していた.このような些細な行為や出来事(事件ですらない)が人生にとって何であり得るというのか...... だが年譜とは,辛うじて記憶にひっかかる程度の漂流物の集成に他なるまい.そこには(哲学者もいうように)始め・半ば・終わりが構成するような統一はない. そこで継起する出来事の間には因果関係もない.けれども喜怒哀楽や愛憎,発見や出会いの機会ではあった事々の心中の残骸はまた, あるいは交わり,行き違い,あるいは多少なりとも同じ時間を分かち合った者たちにとって,一つの生を思うよすがに成り得るのではないだろうか. そして,おそらくそれが年譜の作成を申しつけ下された委員会の趣旨であっただろう.