年譜

福岡時代(1971−1980)


1971年 (昭和46年) 25歳

夫の学生時代からの友人である福岡在住の水崎夫妻, 堤夫妻, 柳川夫妻, 水田夫妻そして八尋夫妻 (柳川, 水田は当時独身) とほぼ年に一度九重に登山する. また誰かの誕生日などに夕食をともにする. これは断続的に長年にわたってつづく. 石橋家の依頼で,いずれも小学生の郁人,あかねの二人にフランス語のレッスンを開始する. これは数年間つづく. 4 月, 佐世保国際経済大学 (現長崎国際経済大学) および長崎外国語短期大学 (現長崎外国語大学) でフランス語およびフランス語会話の非常勤講師をつとめる. 佐世保で教えた後, 長距離バスで長崎にゆき, 大学の宿舎に一泊し,翌日教え,またバスで帰るのである. (72年 3月まで). 9月初め近藤矩子氏にすすめられ, 夫と萩および出雲に旅行. 10月9‐10日, フランス文学会大会に出席のため夫と京都に旅行. その後もフランス文学会の折りには, 夫とともに, またみづほの誕生後にはこれをつれて, 春には東京を, 秋には東京以外の地方を, それに九州支部大会の開催される九州各地を訪れる. これは長男寛の誕生までつづく. この頃, 九州大学文学部の外国人教師マリ= ジョゼ・バルボ嬢およびパリ外国宣教会の神父で福岡大学フランス語講師ジュリヤン・ガイヤールと知り合う. この二人に両末松, バプティスト教会の宣教師で西南学院大学のフランス語教師ヒュー・ヤングを中心にして, バルボの住む福岡市西新汐入の宿舎に週一回, 市内諸大学の希望する学生が数人の社会人とともに集まり, フランス映画を見たり, フランス語でゲームや歌,また討論や劇をおこなう「サークル」ができていく (73年春まで). 12月 1月, 夫と京都旅行. 清水寺, 龍安寺, 三千院, 寂光院などを見物する.

1972年 (昭和47年) 26歳

2 月 8日, 「サークル」で太宰府に遠足. 4 月, 西南学院大学で非常勤講師をつとめることになる (1980年 3月まで). 福岡日仏協会主催のフランス語講習会でもしばしば「会話」を, また時には夫と共同で「フランス語作文」を担当. 6 月, 堤夫妻の住む福岡市西区の室住団地自治会主催の談話会で「フランスの家庭生活」について講演する. 7 月 2日-9 月19日, 夫同伴でフランスへの里帰り (飛行機は当時アラスカ経由). モンペリエでは両親の家に滞在し, 一カ月の間モンペリエ大学での視聴覚によるフランス語教育法「クレディフ方式」の講習会に出席し, 免許をとる. 10月, モンペリエ大学文学部博士第三課程 (比較文学専攻) に登録する. 指導教官はジャン・ボワッセル教授. 文通によって, また夏に帰国し面接して指導をうけることになる.

1973年 (昭和48年) 27歳

4 月, 日本フランス語フランス文学会の会員となる. 4 月14日, 文楽の公演見物 (福岡電気ホール). 5月3-5 日, 「サークル」九重で合宿し, マリ= ジョゼ・バルボに代わった九大の外人教師クリスチャン・トナニを招待するが, これは禍根をのこすことになる. 「サークル」は彼の家での集まりになるのだが, 彼はこのグループを別のものにしようと企てていくからである. 5 月22日, 夫の妹和代, 糸島郡前原町の消防士柴田正弘と結婚. 6 月20日-9月16日, 渡仏. 10月, 3 月退職予定の西南学院大学進藤誠一教授にかわって,夫が50〜 60名を擁する学生のクラブ「フランス語研究会」の顧問となったため, クラブ最大の行事であるフランス語劇の練習に, 彼とともに秋から冬にかけて連日立ち会って指導にあたることになる (1979年12月まで毎年). この年はサルトルの『蠅』を上演. 10月10日, ガイヤール神父および夫と平戸見物. 秋,日本フランス語フランス文学会九州支部大会にて「マルロー, 1973年夏」の標題で口頭発表し, 論文は翌年研究誌に掲載される (「文章の目録」No 3. 以後発表の論文は同目録参照). 12 月, この頃「サークル」はすでにトナニの発案で CCFF ( 福岡フランス文化サークル) と呼ばれている.

1974年 (昭和49年) 28 歳

2 月, 西南学院大学の学生藤野博史と北海道出身の道子さんとの結婚に夫とともに媒酌人となる. 6 月29日-9 月17日, 渡仏. 途中, 東京で湯島天神, 神田明神, 明治神宮などを見物する. 9 月26日, 夫の母ユク肝臓病のため福岡市東区原病院にて死去. 11月15日, 西南学院大学フランス語研究会『ペリション氏の旅行』を上演. 12月27日, 5 泊 6日で堤夫妻とともに大山にスキーに行く.

1975年 (昭和50年) 29 歳

1 月, 西南学院大学の特に夫の担任するクラスの学生が大学による授業料値上げに反対し校庭に座り込む. クレールもこれに合流. 学長からの圧力が壽におよぶ. 「サークル」の崩壊. トナニは「九州日仏学館」という学校 (76年開校) を創設する. この頃サークルでは頻繁に討論, 論戦があった. サークルはフランス政府公認の学校の創設に協力するか否か, 教師が無報酬で「働く」のは不道徳なことか, 現地の言語を習得する気のない外国人による言語教育が信じられるか...... 規定も何もない「総会」はかつて殆ど活動もしなかった「メンバー」が構成する多数決によりトナニ案に賛成し, 多くの学生メンバーは学館の顧客となる. この頃より, 「サークル」の核であった者に新たなメンバーが加わってフランス語劇のサークルができていく. ガイヤール, 日巻和子, 三苫輝子, 百田みち子, ヤング, 両末松, そして福大の学生である城石, 服部一郎, 岩永が中心となる. まず宇治橋, 兼川もしくはヤングの家に土曜日の夕方集まる (その後いくつかの公民館を利用). 3 月に糸島郡怡土村 (現前原市) 高祖の神社にてプレヴェールのいくつかの小場面を上演. 見物者は山下高之ほか 1,2 名だった. 山下はその後入会し中心的会員の一人となる. また一時フランス人アラン・ニヤールも会員として活躍する. 5 月30日, 福岡市早良区南庄 4丁目13番室見団地8‐ 504 号に移転. 7 月14日, 夫とともにフランスに発つ. モンペリエに向かう途中クリューズの姉の家に帰郷しているジュリヤン・ガイヤールを訪問する. また宇治橋浩一夫妻はモンペリエのクレールの実家を来訪. 8 月第一週は父母や弟妹とピレネのレ・ザングル村に滞在し, 山歩き, 読書, 観光, 茸取りで過ごす. * 日本赤軍の浅間山荘事件のニュース伝わる. 8 月16‐26日, 夫および妹のセシルと三人でイタリアに旅行し, パヴィア, ヴェネチアなどを見物する. 9 月21日, ソヴィエト航空で帰国 (夫は 9月 1日に帰国).イタリア語を習得しはじめる. 11月 1日, 西南学院大学フランス語研究会マリヴォ『本気の俳優』を上演. 12月30日, 虫垂炎のため西新病院に入院し, 手術をうける (翌年 1月 5日退院).

1976年 (昭和51年) 30 歳

2 月,この頃週に一度ほどジュリヤン・ガイヤールと会い, 夫とともに三人で食事をする. 他方ヒュー・ヤングとは藤崎の千眼禅寺の住職岡崎玉鳳のもとで数年にわたって山水画の指導をうける. 禅僧の闊達な精神, スリランカやインドについての話に感銘する. フランス演劇サークルの集まりは, 波多江一俊氏の好意で防塁前の氏のアパートで行うようになる. 年度末を利用して夫と広島に旅行し, 原爆記念館や美術館などを見物した. 6 月15日, 学位請求論文を父親を通してモンペリエ大学文学部に提出. 7 月 5日より 10 月24日までフランスに一時帰国するが, その間に 8月29日, 兄イーヴ鉄鋼業視察のため妻ダニエルとともに来日する. 二人は壽の案内で福岡から九州各地, 宮島, 広島, 京都, 奈良 (9 月 4日) などを経て東京へむかう. 9 月, 演劇サークル, レズヴァニの『大脳』を選ぶが,数ヵ月の練習の後これを放棄し, ベケットの『ゴドーを待ちながら』に変更する. 11月 5日, 西南大学フランス語研究会, モリエールの『病は気から』を上演.

1977年 (昭和52年) 31 歳

2 月 7日, 渡仏 (4 月 3日まで).博士論文の公開口述試問に合格し, モンペリエ大学文学部博士課程修了 (第三課程文学博士. 比較文学).博士論文はアンドレ・マルローに関するもの (「文章の目録」No 2参照). 夫に高知の大学のポストの提案があったので, 6 月 25 日から 2泊で夫と高知に旅行. しかしこの話はことわる. 7 月10日, 日仏文化協会の夏期語学留学生の引率を依頼された夫とフランスに渡航. 父母兄弟とすごし, 8 月30日に帰国. 10月19日, 福岡市南当仁公民館の「功寿大学」で講演する. 11月 5日, 西南学院大学フランス語研究会モリエールの『ドン・ジュアン』 (永渕幸利演出) を上演. 11月9-11日, 西南大学の大学祭による休業を利用して夫と雲仙・島原に旅行する. 12月17-18日, 演劇サークル『ゴドーを待ちながら』を当仁公民館にて上演. 第一幕に出演する. 12月26-29日, 夫と壱岐に旅行. フェリーに自転車を積んでいき, これで島を回った.

1978年 (昭和53年) 32 歳

2 月28日, 市川市の成田空港建設反対運動のための第 4インター主催の集会に参加. 延々とつづく学生たちの決意表明や檄に辟易する. 3 月 1日, 三里塚での大集会に参加し( 戸村一作の演説をきく),デモにも加わる. 3 月12日, 同じセクト主催の同じ運動の集会に参加 (九州大学). 3月20日, 演劇サークル九重山で合宿.イヨネスコの『未来は卵の中に』を練習する. 3 月24日, 渡仏 (夫は大学の国内研究休暇を利用して一月後に渡仏). 5月-6 月, 夫とフィレンツェに滞在し, 午前中はイタリア語学校ロレンツォ・デイ・メディチで文法および会話を 2時間ずつ学び, 午後は市内見物. 週末は近くの古い都市 (シエナ, ヴォルテッラ, ピサなど) や遺跡をおとずれる.*5月 9日「赤い旅団」により誘拐されていたキリスト教民主党の党首アルド・モーロ暗殺死体で発見される.10日, ウフィッティ美術館のなかで, フィレンツェ大学に講演にきたが, 暗殺事件に抗議する学生ストのために講演は中止になったというジャック・プルースト教授夫妻にでくわす. 5 月26日, フランスより父母フィレンツェ来訪. その車で 5月末から 6月初めにかけて, ペルージア, アッシジ, サン・マリノ共和国, ラヴェンナ, パドヴァ, ヴェネツィアなどを旅行する. 6 月初め,街路で出合った旅行中の西南大学の卒業生井上直子がバイクの男達に襲われ怪我をし入院したので, 夫とともに病院で通訳などの世話をする. 7 月13日より, 夫および妹セシルとともにフランスの観光団「アテナ」に参加して猛暑のギリシアを旅行する. 高校教師を数人ふくむ旅行団はギリシアの古代文化への関心が高く, また案内者がギリシア語やギリシア文学・歴史の教師であり, 行く先々でヘロドトスの朗読などの入る説明が行われ, その後討論が続いた. コリントの遺跡から始めて, ミュケーネ, エピダウロス (円形劇場での『コロノスのオイディプス』の上演を見物), アルカディア, オリュンピアのかつての五輪競技場, デルフォイ, パルナス山, テルモピルなどを見物. 次いで小さなフェリーでミコノス島にわたる. そこで男女の裸体主義者−フランスの海岸でも見られる−や男子同性愛者を目撃する. アテナイ経由で 8月 2日に帰仏. 8 月28日, 医者よりおそらく妊娠したと告げられる. 9 月23日に日本に帰る. 11月 4日, 西南学院大学フランス語研究会アヌイの『泥棒たちの舞踏会』を上演.

1979年 (昭和54年) 33 歳

2 月, 演劇サークル博多区簀子公民館でイヨネスコの『未来は卵のなかに』を上演. 3 月12日, 長女みづほ・フロランス, 福岡市早良区の西新病院 (現成人病センターの所在地) で帝王切開により生まれる. 6 月13日, みづほを連れてフランスに発つ. 夫は 7月16日から合流.8 月弟ダニエルの赴任地カオール市およびその周辺を見物し, またミュラ・スュール・ヴェブルの伯母の持ち家に 2週間滞在する. 8 月27日, 妹セシル, 父のかつての教え子ジャン= ジャック・グロッソとカトリック教会で結婚. 9 月初めに帰国. 秋より, 仕事にでるために, 団地の主婦である古賀夫人にみづほを週に一二度あずける. 11月10日, 西南学院大学フランス語研究会ドーデの『アルルの女』を上演. 12月 1日, 九州フランス文学会大会に出席のため, みづほ同伴で鹿児島に行く.

1980年 (昭和55年) 34 歳

1 月13日, 三苫輝子, ガイヤール, 夫と能古島に遊ぶ. 2 月, 夫の 4月からの転勤にともなって西南学院大の講師をことわられ, 4 月より一年間無職となる. 3 月 3日, 演劇サークル, ジャリの『丘の上のユビュ』を上演 (警固公民館).音響 (太鼓) を担当. 3 月21日, 一家で山口市に移り, 緑町 5丁目27番地の二階建ての貸家 (木村氏所有) に入る. しかし冷・暖房が困難な建築であるため, 自転車で町をめぐり他の家をさがす.この頃数年, アジアの宗教とくに仏教に関する英語や仏語の本をよむ. 6 月18日, みづほとフランスに発つ (夫は 8月に来仏).ミュラの湖にてカヌーでの「槍試合」を見る. 9 月22-10月24日, フランスより来日する両親とともに帰国し, みづほを乳母車に乗せて京都および奈良を旅し, 山口にいたる. その後九州旅行. これは両親の唯一の一ヵ月におよぶ日本滞在であった. 10月, 宇部短期大学非常勤講師 (翌年 3月まで). 11 月, 山口市大内御堀 633-28 姫山台 168の住宅に移り, 以後そこに住む.