年譜

フランス時代(1945−1970)


1945年 (昭和20年) 零歳

11月26日, クレール= ネリ (Claire-Nelly),フランス国ロッテ・ガロンヌ県アジャン市に生まれる. 父ジョルジュ= ルイ= ジャン・メゾ(MEYZAUD) は英語の教師, 母ジュリエット= ローズ= マリー・ネーグル (NEGRE)は数学の教師. 兄イーヴ, 双子の弟ジャックおよびダニエル, 妹セシルの 5人兄弟・姉妹の第二子. メゾ一家は二三年後にオーヴェルニュ地方のオーリヤック市に移転する.

1956年 (昭和31年) 9 月 - 1963 年 (昭和38年) 6 月     10歳 - 17歳

オーリヤック市の女子のリセ (高等中学校) ( 当時リセは 7年制で男女別学) で学ぶ. 35名の児童のうち大半は教師の子供で, レヴェルの高い教室だった. 友人のリュシエンヌ・アレクサキス (旧姓ガリニエ) によれば, クレールはその中でも特に「真面目な勉強家」で, 同級生のアンヌ= リーズ・モーグと毎年「優等賞」を争ったという. かなり孤立していた. 他方兄のイーヴによれば「クレールはオーリヤックの女子のリセで初等および中等教育をうけた」という.

1957年 (昭和32年) 9 月 - 1959 年 (昭和34年) 7 月     11歳 - 13歳

クラスの数学をクレールの母親が, 英語をリュシエンヌの母親が担当したことで二人は親密になる. また父ジョルジュは大学時代にリュシエンヌの兄と知り合っていた. 両親は厳格で, 学校で推薦されない読み物類は没収されたし, 兄イーヴは夜父と同じ机に向き合って, クレールとセシルとは母に向き合って勉強させられた. 水曜日にはクラスの生徒でただひとりピアノのレッスンをうけた. イーヴの証言 :「妹は音楽が好きで, 家族中で最も才能に恵まれていた. ピアノでバッハやシューベルトを弾くのがとても好きだった. 市の公開のコンサートでピアノ曲を弾くよう招待されたこともあった」. 日曜日にはカトリックのガール・スカウトでの活動があり, 仲間と遊ぶ時間はなかった. それに, 当時の同じ年頃の子供たちが抱く関心事は「もはや彼女の興味を引かなかった」( リュシエンヌ).日曜日など一家で森のきまった一角によく昼食に行った.

1962年 (昭和37年) 16 歳

6 月, バカロレア (大学入学資格試験) 第一部筆記に合格. 成績「秀」.

1963年 (昭和38年) 17 歳

6 月, バカロレア「哲学」に合格. 当時20万人の都市であったオーリヤックで高度の教育をうけることはできないので, 9 月, アンヌ= リーズ, リュシエンヌとともにパリに上る. 三人は, フランスで超エリート校とされるセーヴルの女子高等師範学校への入学を二年間準備するクラス (カーニュおよびイポカーニュ) のある別々のリセに入る. クレールはパリ15区のカミーユ・セー高等中学校に. 同じくパリの技術系の大学校に入った兄イーヴによれば「妹にはパリで何度も会って, 一緒に散歩したり劇場や映画やコンサートなどに行った」という. 10月, パリ大学文学・人文学部に入学.

1964年 (昭和39年) 18 歳

6 月, セーヴルの高等師範学校の入学試験第一部 (筆記) に合格. 夏, ラ・ロシェルの 国際ヨット教室に参加し, そこでタケシなる日本人青年と知り合い―東洋との最初の出合い―, 文通する. リュシエンヌともさらに親密になる.

1965年 (昭和40年) 19 歳

6 月, 高等師範学校試験第二部 (口述) 受験をやめ, 「イペス」( 中等教育教員養成学科. 三年間奨学金をもらって教員免許をとり, その後 10 年間国民教育に従事するという契約) の登用試験をうけ合格する. 9 月, リュシエンヌとともにパリ大学国際都市 (パリ14区ジュールダン通り) の「英仏館」に移る. 日本人画学生俵ノリコと相部屋になり, 日本への関心をさらに強める. パリ大学文学・人文学部の学士号 (英語英文学) 取得の準備にはいる.

1966年 (昭和41年) 20 歳

夏, メゾ一家オーリヤックを去りモンペリエ市のエグランティエ通り14番に移る. クレールはパリでフォンなるヴェトナム人学生と知り合いこれと交際するが, 2 年後に別れる.

1967年 (昭和42年) 21 歳

6 月, パリ大学文学・人文学部卒業 (文学士) ( 英語英文学専攻). 10 月, 同大学同学部大学院修士課程入学 (英語英文学専攻). 同時に交換講師として英国にわたり, ダーラム (Durham) 市の Neville's Cross Teachers'Training Collegeでフランス語を教える (翌年 6月まで).

1968年 (昭和43年) 22 歳

*5-6月, フランス「五月革命」. 6 月, パリにもどる. 1966年11月よりフランス政府給費生としてパリ大学に留学中の末松壽 (1939年福岡生まれ) に紹介される. 9 月, パリ大学文学・人文学部修士課程修了 (文学修士).修士論文はアーノルド・ウエスカーについての論文 (「文章の目録」No 1参照). パリ東洋語学校 (I.N.A.L.C.O.の前身) の日本語科に登録. シフェール,オリガス,森有正, 藤森文吉などの授業に感銘をうける. 英語英文学のアグレガシオン (高等教育教授資格試験) をボイコット. リュシエンヌによれば, 修士号取得をきっかけに, クレールは英語英文学の勉強を放棄して日本語に集中し, 上達はきわめて早かったという.

1969年 (昭和44年) 23 歳

春, かなり頻繁に末松壽と会う. 10月, パリを去ってモンペリエの両親のもとにもどる. モンペリエ大学文学部入学 (フランス文学専攻).比較文学のアンリ・トマ講師やとりわけフランス18世紀の研究者ジャック・プルースト教授の講義に感銘をうける. 他方, 親の期待に反する針路変更を, また「イペス」への払い戻しのための援助を両親に認めてもらわなければならなかった.

1970年 (昭和45年) 24 歳

5 月, 壽は書状によりまた面談によりクレールの両親に彼女との結婚の承諾を求める. 二ヵ月の後に両親はこれを了承. 6 月, モンペリエ大学文学部卒業 (文学士) ( 学士入学の場合は一年間で卒業できた). 7月20日, フランス民法にもとづき, 兄夫妻 (イーヴおよびダニエル) を証人としてモンペリエ市役所にて末松壽と結婚. 9 月, ブリュッセルから夫とともにチャーター便の飛行機に席をとり, 東京に向かう. 福岡市西区小田部 3丁目179 の夫の実家に落ち着く. 夫は10月より西南学院大学講師となり, 福岡市西区金門町の西南学院住宅 204号に移り住む.

オーリヤックの高校時代の哲学教師イヴォンヌ・リシャール女史はクレールの性格について, 「公正で力強くかつ繊細な精神, 生き生きした悪戯っぽくさえある視線, 鋭い正義感. すでに成熟していた彼女の筆跡を私は今でも覚えています」, という. さらに「古典的な表面の裏に独創性が, そして時には大胆さがありました. ですから彼女が,当時としてはまたオーリヤックからみれば, あれほど遠かった日本という国を選んだことで, 私はそれほど驚きはしませんでした」. 兄のイーヴはクレールの方向転換について, 「記憶違いでなければ, クレールは師範学校入学をめざす準備学級でのガリ勉の雰囲気をあまり評価しなかった. そしてかなり早くから文学部 (英語や文学) の方に, そして結局は東洋語の方に向かった」という. 他方, 「才能に恵まれ, あたかも彼女のために敷かれていたかのような道で立派に成功しつつあったクレールが, なんであのようにラディカルな変化を選んだのか」 をずっと考えてきたというリュシエンヌ・アレクサキスは, 高等師範学校から英文学へ, ついで日本へと転回した友の心理を分析して, クレールの幼・少女時代はひどくストレスの多い生活だったために, 「おそらく彼女は家族とりわけ両親と自分との間に空間的にも文化的にもできるだけ大きな距離を置きたかったのだ」という結論にいたったという. そして弟のジャックの指摘. 「25歳の頃, 姉が僕に言ったことを覚えている.自分は決して40歳を超すことはないだろう,と.姉は老年というのは考えられないし,耐え難いものだと思っていました. それから自分の身体のことが好きではなく,身体については強い羞恥心を抱いていました」.