『厚南大風水害の思い出 ― 五十回忌追悼記念誌 ―』 313ページ
「風水害の思い出」東割 柳 緑
 当時は十七歳で、宇部鉄道株式会社の本社に勤めていました。当日帰りは風雨が非常に強く岩鼻駅で電車を降り、琴川旧橋が破れて通行不能のため、新橋を廻ってズブ濡れになって帰った。夕方電気もつかず屋根瓦は吹き飛ぶし早く食事を済ませて休んだ。そのうち「ザーザー」とものすごい音がするので、なんと大雨がふるものだと思っているうちに頭の方が低くなったので、「これは大変、家が倒れる。」と思って、飛び起き祖母と弟を起こして廊下を出た時にはすでにヒザまで水があった。吊階段を降ろし家族七人で二階に上がったがみる間に潮水は鴨居まで来た。二階から手を伸ばして見ると水に届いた。もう満潮時だから水の増えることはないだろうと父が言った。家のそばの中川の方で家後と流される人の助けを求めた悲痛な声は忘れることは出来ません。母は一心にお祈りをして、「死ぬ時は皆いっしょよ。」と言った。そのうち潮がだんだん引きはじめ胸をなでおろした。夜が明けて父は屋根の上にあがり隣近所の方と呼び合って無事を喜んだ。そのうち警防団の方々が舟で助けに来て下さった。
 私は二階にあった学生時代のセーラー服を着て恐かった一夜であったけれど、チョッピリ明るい気持ちで中野公会堂に避難した。当地の方々には大変お世話になりました。私の現在住んで居る家の長屋に前の道路の電柱が倒れかかった。新開作の網重さんの主人は電柱に登られ助かりましたが、奥さんは子供を背負って流れ着かれたが亡くなっておられてなんともやりきれない気持ちでした。
 とにかく私の処は流が大変ひどかったので、なにも残らず、新築して三月に家移りしたばかりの玄関には大きな漁船が入っていました。
 西宇部に行く道路には多くの死体が並べられていましたし、後日合同慰霊祭が現グッピーベーカリーの場所で行われました。
 潮止が出来るまで二ヶ月かかりましたので、ウナギやヒラメが住みカキが付いていた。若さのせいでそれを嬉しがってみたことを思いだされます。当時の濁流のドベが散ったあとが今も天井に残してあります。
 潮が引いた時母達が流された家財道具を毎日探して歩いたのも記憶にあらたです。尚家に住まれるようになる迄、黒石の伊藤様でお世話になり、黒石の方々には大変お世話になりました。どうも有難うございました。
『厚南大風水害の思い出 ― 五十回忌追悼記念誌 ―』より