『厚南大風水害の思い出 ― 五十回忌追悼記念誌 ―』 104ページ
「大風水害を顧みて」西割 内田トシ子
 思えば昭和十七年八月二十七日は、早朝より異様な空模様でしたが、午後になり風は次第に激しく、日暮れ頃には風に雨がまじる状況でした。ところが午後九時ごろ外でゴーッと異様な物音がしたので、様子を見に母が外に出たところ、新開作土手町(JR小野田線沿い)まで一望することができ、青田(稲田)、蓮の田園が海と化し、怒涛の如く流れてくる状を見て、私達に早く外に出て避難(岡田屋の方へ)するようにと叫びました。
 妹と外に出た時は、腰のあたりまで水位があり、どうしょうかと思う間もなく増水し、家の西側まで行った所で既に水位は胸のあたりに達し、歩くことすらできなくなりました。 ちょうどイチジクの大木がありましたので、皆んなでその枝を掴み木によじ登りました。水が軒に達した時、父が屋根に上がって瓦を除けて私達を引き上げてくれました。親子四人は棟木にしがみつき、そうこうする内に屋根の中腹まで水がきました。本当に生きた心地もなく、ただ呆然と水面を見つめるのみでした。
 風雨も弱まり時々お月様の光が見えるようになり、一安心した途端、土手町の方より家や崩壊した家の柱や牛馬が流れて来るのが目に入りましたが、恐怖のあまり声も出ません。 父の「絶対に手を離すな」という大声で我れに返り、前方を見ますと大きな藁屋が私の家の方に向かって流れて来ています。どうする事も出来ず我が家にドカーンと突き当たって我が家は浮き上がり、ひと廻りして流れ出しました。途中電線が行く手をさえぎり避けるのに苦労しました。又、漂流途中、牛馬が五、六頭助けを求めて力を振りしぼり一生懸命泳いで来るのです。助けてやりたくても家に上がって来れば我々の命も保障されません。 複雑な気持ちで、ただ見つめるだけでした。その内、牛馬も力尽きて濁流に呑まれたのか、 一頭、又一頭と姿が見えなくなったり、目前で水の怖さをまざまざと見せつけられ、ショックで一瞬我を忘れ気が遠くなりました。地獄絵さながらの悲惨なこの光景は、言語に絶するものでありました。
 堤防が決壊し、漂流し始めて約三時間位と思いますが、小畑領の中央あたりで引き潮になって水位が下がった為か、家が流れなくなり田圃の中に漂着したのです。その時は雨も降り止んでいました。瞬間「助かった」と、実感した途端に全身の力が抜け腰を落とし、そのまま立ち上がることができませんでした
 ふと母の腕を見ると、血を流し大怪我をしています。漂流中、いろいろな物が流れてき て突き当たりそうになるのを防ぐ内に、ガラスで腕を切った様です。私の着ていた洋服を 切り裂き、その布で止血しましたが出血が多く、母も気を失ってしまい、親子で励ましあっている内に世が明け、東の空が白む頃部落(自治会)、警防団の方々に救助されたのです。
 救助の小舟が見えた時には、安堵と嬉しさのあまり感極まって、妹と二人を大声をあげて泣きました。小舟で小畑領の御撫育用水路の土手に上げてもらい、黒石の松江八幡宮の前に行きました。御旅所の回りには水死された方が四〜五十人位並べてあり気が遠くなりました。我に返った時は皆んなで手を合わせていました。
 其の後、親戚で世話になる事になりましたが、早く家跡に帰って見たくても三日位はかなり水位があり、帰る事も出来ず本当に気懸かりでとても長く感じました。まだ水が引けてないところを帰ってみると、あるのは浮き沈みしている屋敷だけで、買っていた馬や犬、猫の姿は見えません。流されて死んだのでしょう。一瞬の悪夢に、ただ呆然となるばかりです。家族全員、水死された家も何軒もあるのに、親子四人全員助かっただけでも幸せと思うべきです。
 父は支那事変に出征し、大風水害前に召集解除で家にいた時の出来事で、父の指示に従って助かったのです。父が出征中であれば母子三人、水死したと思います。水害後一ヶ月位親戚で世話になり、其の後は市の仮設住宅(中原)に移り住む事になり、本当に有難く思いました。もう西割には帰りたくないと思っていましたが、時が立てば父にとっても、私共姉妹にとっても、生まれ育った地が恋しく、十八年十二月に元の屋敷跡へ現在の納屋を建てました。家財道具は何ひとつなくても、これで本当に落ち着いた生活ができると思うと嬉しさで一杯でした。
 今は、何不自由なく無事幸せな日々を送って居りますが、現在でも台風時期になりますと、あの十七年の大風水害の事を思い出します。毎年八月二十七日には、水害時何百人もの帰らぬ犠牲者の皆様方のご冥福をお祈りしております。
『厚南大風水害の思い出 ― 五十回忌追悼記念誌 ―』より