『厚南大風水害の思い出 ― 五十回忌追悼記念誌 ―』 195ページ
「風水害の思いで」中野開作 竹本光昭
 私の家は父四十二歳、母四十二歳、そして祖母七十歳、姉十六歳、そして私十三歳、妹九歳と四歳、弟六歳の八人家族、貧乏ではありましたが仲よく暮らしておりました。当時父は宇部電気鉄道(現小野田線)に勤務しており、私は長門工業高校(廃校)の二年生でした。母と祖母は六反の「小作田」を含む約一町歩の農業を営んでおりました。私は、いつでも父の自転車の後ろの荷台に乗って新開作駅(現在は廃止)まで行き、父は雀田駅まで、私は沖の山駅(現在は廃止)まで乗って学校へ行くのが、日課となっていました。
 当日父は風邪をひいて勤務を休み寝こんでいました。風が強くなり、停電でもあった関係で早めに夕食をとり、寝ていたのですが、暗くて時間はよく覚えていませんが、隣家の杉野勝元さんが「オーイ竹本には逃げたか。土手が切れたぞ。」という声で三十八度位の熱を出して寝ていた父が、よく寝ていたこどもたちをたたきおこし、着の身着のままで外へ飛び出しましたが、沖の方から真っ白な波が月に映えて悪魔のように感じた事をありありと覚えています。父が妹を背負い、母が弟を背負って、私が祖母と妹の手を握り、線路の上を一目散に宇部駅の方へ走りました。父と職場が一緒であった里の尾の三隅さんのお宅へご厄介になるつもりだったのです。上開作の中川の上にかかっている鉄橋まで来た時急に祖母が動かなくなりました。七十歳であった祖母にとっては本当に死ぬ思いであったのでしょう。私はもういいからお前たちは逃げなさいと言い出したのです。俺がおんぶするから一緒に逃げようと背中を出すと、お前におぶさるわけにはいかないといい、漸く腰をあげてくれ嬉しいやらほっとするやらで後を振りむくとほえるような白波も見えません。それ迄は周囲を見るような余裕さえもなかったのです。皆なの無事な顔をみてよかったねと漸く笑顔が戻り、急ぎ足で目的の三隅さんのお宅へ着く事ができ、疲れと安堵感で朝迄グッスリ寝てしまいました。
 厚南小学校が避難場所と決まり宇部駅前を通り、大森を抜け、学校へ着いたのは十時頃です。十組くらいの避難者がいましたが昼過ぎには、ざっと講堂一杯になっており、三隅さんの処で頂いたおむすびを食べ乍ら「今晩はどうするの」と不安で一杯でしたが、幸いにして蓮光寺下の高野さんが尋ねてこられ、「今晩は家へ泊まってください。」という事になりましたが、高野さんとは多少の縁続きであり本当に地獄に佛とはこの事です。
 明くる日、潮も引き、父と私とで一度家へ帰って見ようという事になり、途中「家はあるかな。」「あればいいがな」と父、「死人が家の中にいなければいいな。」「うん、鉄道が一寸高いから大丈夫だろう。」と父、「牛を売っておいてよかったね。」「うん、丁度うまい具合に買い手があったからのう。」と父、その事を思い出してか、牛を殺さなかっただけでもよかったのうといい乍ら安心した様子でした。家があればいいな。なかったらどうしょうと期待と不安にかられ乍らも家が見えた時には本当に感無量でした。家の中は何一つ見当たりません。幸いにも仏壇は残っており感謝し乍ら二人で手を合わせていました。今夜一晩高野さんにご厄介になって、明日は帰る事にしようと決めました。高野さんからお米を頂き二、三日分の食料も確保でき、高野さんにお礼をいい全員で帰宅しましたが寝る所がありません。あちこちに散らばっていた木切れを集め鉄道線路の上に仮小屋を作り寝泊りする事としました。昼は家の修理をして一日も早く家の中で寝ることのできる様にと、父も私も一生懸命でした。仮小屋の生活も二日だけで終る事ができましたが、唯、雨が防げるだけです。時期的にも布団もいらず、それこそ着の身着のままの生活です。貯米器の中にある真黒になったお米を厚東川で洗い、それを乾かし石うすで粉にしてお茶をかけてたべ、戴いたお米を食い延しをしておりました。宇部市の援助で炊き出しが始まりましたが、小さいおむすびが三個ずつです。母がお前は仕事をするからと一個をくれましたが今考えると二個のむすびではずいぶん腹も減っていたろうと思いますが、当時は、腹の空いている方が先で考える余裕もありません。家の方も段々と修理でき、壁も父と二人で塗り、おかげで左官仕事も随分と上手になりました。 その内に、全国から救援物資が届き、温かい皆様のお情けに感謝し乍ら漸く平常の生活に 近い状態に戻る事ができましたが、依然として、満潮時には床下迄潮がきており、このあ と又台風がきたらと何時も心配し乍らの生活でした。その後、水防団という組織がうまれ 仮の潮止め工事も行われ一応潮の来ない生活ができる様になりました。今度は真黒になっ て倒れている稲藁をあつめての焼却作業です。厚南では十年位は潮が抜けず、稲を作る事はできないという噂がたち米が作れないという不安で稲藁集めにも大変気落ちした感じで作業した様に思います。
 私にとってこの風水害は何もかも辛い思い出許りですが、唯一つだけ淡い思い出があります。始めの間は蓮光寺迄水を汲みに行っておりましたが、後になって梅本病院(現在はない)の所の土手に水道がひかれ、その水を汲んで帰るのが日課となりました。バケツ一杯の水を汲むのに三十分位かかります。一杯目の水を汲み終わった頃、かわいい女の子が水を汲みにきました。先に汲んでいいよ、といい乍らゆずりました。ありがとう、といってバケツを据えましたが、私にとって今迄感じた事のない、言いようのない感じを憶え、別に言葉を交わす事のないままその日を別れましたが、偶然にも明くる日も、時間が一緒でした。水を汲み乍ら言葉を交わす事もできずにその可愛い横顔許り眺め、ついに名前さえ聞くこともできず四日間の逢瀬は終りました。私は毎日水を汲みに行きましたが、四日目が最後でついに逢う事はできませんでした。五十年たった今、風水害の思い出を書くに当たってあれが初恋だったのかなと思い出し乍らこれを書いています。
 終わりになりましたが、お世話になりました里の尾の三隅さん、中野の高野さんに心から有り難うございましたと、お礼申し上げます。
『厚南大風水害の思い出 ― 五十回忌追悼記念誌 ―』より