『厚南大風水害の思い出 ― 五十回忌追悼記念誌 ―』 191ページ
「五十年前の恐ろしかったこと」東割 隅田寿人
 昭和十七年八月二十七日、当日は朝から猛烈な風雨であったが、今のように気象情報があるわけでもなく、大風がどういう恐恐にあるか全然判らなかった。停電で風雨もひどいので夕食も早く済ませ、午後八時ごろには皆床についた。風の音で中々寝つかれずにウトウトしていると、突然「バリッバリッ」と大きな音がして表の間の畳の下から大量の水が吹き出してきた。父が「皆起きろ」と大声で叫ぶと同時に全員一斉にとび起きた。水は忽ち膝まで増水し、畳は浮き、机や椅子も流れ出した。何が起きたのか皆目見当がつかない。更に水位があがってくるので二階へあがろうとしたが、階段が浮いて流れ、二階にもあがれない。やむなく子供達をタンスの上へあげようとしたが、タンスも浮いて駄目。万策つきたと思った瞬間突差の機転で、私が家の裏にあった柿の木の枝に飛びついた。そして、父が下から子供達を抱え、私が上から手を引張り順次柿の木へ避難することが出来た。ただ、兄は、水が出ると同時に外へとび出した。外は既に胸まで水があり流されそうになったが、幸い、桃の木につかまり、家の裏を伝って漸く柿の木へ登ってきた。その間何分位経ったのか、とにかく無我夢中で一瞬の出来事でした。柿の木にしても、通常ではとてもとびつける高さではなく、追いつめられて馬鹿力が出たのかなあと後で感心したものでした。何れにしても家族全員(父、母、兄、私と弟、妹それに従兄弟の計九人)とりあえず柿の木へ避難できホッとしました。私達が柿の木に登った時には既に隣の石川の家は跡形もなく流されていました。そのうち、柿の木の下枝も水につかってきたので屋根へ移動しました。依然として風雨は強く、暗闇の中で夜光虫であろうか薄気味の悪い蒼白い光を放ち、全身ズブ濡れで夏とはいえ寒くてならない。ガタガタ震えながら風雨の収まるのを待っていた。なんとか屋根伝いに二階に入ろうとしたが風雨がひどく動けない。その頃になって漸く厚東川の堤防が決潰したのではないかと推察した。
 父が今から六十年前、厚東川の上流の堤防が決潰したことがあるが、その時の教訓で家というものは、軒がつからなければ流れることはないと聞いているのでまだ大丈夫と云う。しかし、流されることも考え、大人と子供を組合せ、グループをつくり、万一に備えるなど筆舌につくせない本当に悲槍なものでした。
 朝方になり少し明るくなり、風雨も少しおさまってきたので、屋根伝いに漸く二階へ入ることが出来た。丁度二階にあったブドウ酒を飲みながら全員の無事を喜び合ったが、未だにその時のブドウ酒の味が忘れられない。一本の柿の木のや、桃の木のお陰で全員の命が助かった訳で、父はこういうこともあるので、家の回りには木を植えておかなければいけないと申しておりました。
 明るくなって、家の中えおみると、堤防の松の木、電柱、抗木等のガラクタが天井まで山積みになっており、見る影」もない有様で、家族一同茫然としてしまいました。そのうち、警防団の人が船で迎えにきてくれ中野の公会堂へ避難していきました。途中は一面海の様で、家は壊れ、牛馬の死体は横たわり、昨日までの姿が一夜にして様変わりの状況に改めて自然の猛威のきびしさを思い知らされたものです。
 中野の公会堂で、それぞれ避難先を割り当てられ、私達家族は黒石の平田さんのお宅にお世話になることになりました。翌日から男は家の後片付け、潮時をみては毎日毎日家との往復、特に、フトンや衣類の運搬には閉口した。泥水につかった衣類を厚東川の上流の広瀬の河原まで運び、女子供がそこで洗濯し、父の実家(公潮の白石)で乾燥整理した。今のように自動車がある訳でなくすべての車力で運んだ。兎に角大変な作業でした。なんとか応急措置として、四畳半、三畳の部屋を修理し、家族一同狭いながらも、一緒に暮らすことが出来たのは十一月頃であったと思う。
 五十年を経た今日、当時の恐ろしかったこと、苦しかったことを思い浮かべながら、今日の幸せに感謝するとともに二度とかかる災害の起きることのないよう祈念するものであります。
『厚南大風水害の思い出 ― 五十回忌追悼記念誌 ―』より