『厚南大風水害の思い出 ― 五十回忌追悼記念誌 ―』 296ページ
「八月二十七日の“大変”」黒石 宮本弘
 昭和十七年の夏休みも終わりに近い八月二十七日、午後五時頃には何となく不気味な風が吹きはじめていた。家の前の青々とした稲田の上を風が吹き抜ける時、稲は真横に伏してしまって直立する間が無い程であった。
 時間が経つにつれて、家の藁屋根の藁がどんどん抜けて飛んで行ったり、又屋根そのものが呼吸でもするように上下にバフン、バフンと動く様子を見て、当時小学校五年生であった私の心にも、これはただ事ではないという大きな不安が襲ってきた。
 女学生だった私の姉は、帰宅途中厚東川の橋の上で吹き飛ばされそうになり、両手をついて這うようにしてやっと厚南にたどり着いたと言う。本当に恐ろしかったのであろう。
 それでも夕方早めに風呂にも入り、食事もして雨戸を閉め切って床に就いたのであったが、父は当日三番勤務で、夜十時が交代時間なので、九時過ぎに大風の中に家を出て行った。それを母が見送って間もなく父が帰ってきて大声で「たいへんじゃ!大ごとじゃ!早う起きてお宮へ上がれ!」と皆をたたき起こした。
 屋根瓦などが飛んで来るので、防空頭巾のようなものをかぶって真暗な中を松江八幡宮へ上っていった。姉は生後三ヵ月の弟を背負って。
 父は、家を出て三百メートルばかり行くと堀商店前の田んぼが、夜目にも鏡のように輝いて一面海と化しているのを見て驚いた。満潮と重なって、厚東川や海岸の土手が切れたのだ。しばらくは進もうとしたようだが、とても流川を通って小野田の工場まで行ける状態でないことを知るや、道路沿いの家の戸を叩いて危急を知らせながら逆戻りしたのであった。
 当時は牛馬を飼っている家も多く、父も牛を連れ出して八幡宮の森につないだ。
 八幡宮に上ってみると、暗い拝殿はすでに満員、黒石部落の人だけでなく、おそらくは今流されてきたばかりと思われるずぶぬれの人達も恐怖で声も無くうずくまっていた。
 父は警防団員なので、早速下の水際に行き「助けて!」という声をたよりに大きな男のひとを助け上げ、自分でも信じられない程の力でその人を背負い、百段近くあるお宮の石段をかけ上がったと言う。
 さて、恐怖の一夜が明けると、翌二十八日は雲一つ無い青空、快晴無風の朝であった。 私は弟を背負い、四丁開作と言われる田んぼの方を見に出かけた。潮は引いていたが、新開作か土手町方面から高潮に流されたと思われる大きな家が、どんと田んぼの中に座っているのを見てびっくりした。家の中の戸棚のような所には鶏の死体、また家の外の稲田の中は、寄せられた木材、ごみ、牛馬の死体などが折り重なって、目もあてられぬ光景であった。
 しかし、本当の“地獄絵”を見たのは、それから後の数週間であった。
 農家の人、警防団の人、田んぼの倒れた稲の中、壊れた家の下などから探し出して来る死体が白石商店前のお旅所広場に並べられ、こもがかぶせてある。男もあり女もあるが、みんな濁流を飲んで顔も体も紫色にふくれ上がり、頭髪もバラバラに乱れ、裸同然の無残な姿であった。中には、両手で何かにしがみついた形のままで死んでしまった老人もあり、地獄の一夜が目の前に再現され、涙なしには見られなかった。
 こんな死体置場は、ここだけでなく原文教場にもあったし、まだほかに何か所もあったに違いない。
 助かった親が、行方不明の我が子を捜し歩く姿、親類縁者の遺体確認の彷徨が何日も何も続いた。そのうち死体も腐乱して来て、持ち上げようとすると、皮膚がズルッとむけてしまう。そして、あの耐え難い悪臭!その後も、土手の修復までは、来る日も来る日も海の潮が厚南平野を洗った。満ちればもちろん道路も通れなくなる。
 厚南に際波という地名があるが、まさにその時、海水は際波に打ち寄せ、厚南を干拓前の昔の姿に戻して見せたのだった。
 黒石でも、八幡宮下の宮川を海水が上り、おそらくは宮の後の方迄達したのではなかろうか。私は宮川でたくさんの海の魚を見た。小舟もあったように思うが、私の記憶ちがいだろうか。
 さて、多くの死体の中には、何日経ってもついに取りに来る人の無いものもあり、相当数の死体が、現在の泉町の上の台地に運ばれて埋葬されたように思う。
 家人の記憶によれば、土手町から流された家の中には、昭和九年九月の室戸台風の時、大阪府豊津小学校で倒壊した校舎の下で身を犠牲にして六名の子供を助けられたあの有名な吉岡藤子先生の生家もあり、その吉岡先生の位牌が黒石に流れ着き、それが、同じく有名な教育者日田権一先生の手によって拾い上げられたことが、当時の新聞に大きく刑されたという。
 私の知る限り、まさに厚南一番の“大変”であった。
『厚南大風水害の思い出 ― 五十回忌追悼記念誌 ―』より