『厚南大風水害の思い出 ― 五十回忌追悼記念誌 ―』 161ページ
「厚南風水害を思う」中野開作 小西幸一
 台風十二号が近づいたのだろうか今朝から強い風が吹いている。雨は降らない。今を去る五十年前昭和十七年八月二十七日、この日だけは今でも覚えている。一生忘れないだろう。この日は雨まじりの強風が吹いていた。昔は今で言う台風という言葉を使わなかった。大風と言った。「今日は朝から大風が吹くのう」家の前にへちまが植えていった。大きくなったへちまが二、三本風に吹き千切られてぶら下がっていた。現在ならラジオやテレビで情報を聞いて備えるのだが当時はラジオさえも我が家にはなかった。夕方から風雨はますます強く大暴風雨となっていた。明るいうちに晩飯をすませて電灯の点かない部屋で寝ていた。当時は大風の日は停電がしばしばだった。蝋燭の火が心細く時折風に揺れていた。外はごうごうというものすごい風雨の音だけ、「土間に水が入ってきた」と母が言いだした。いってみると下駄が水に浮いている、と見る見るうちに水位が上がって敷居まで水が上がってきた。畳が浮く。さあ大変だ。家の中は真暗、畳の上に飛び乗って柱にしがみつく。気が付いたら両手で部屋の鴨居にぶら下がっていた。ごうごうという水の音、首まで水につかって両手で部屋の鴨居にしっかりとぶら下がる。口の中に水が入る、からい、塩水だ、海水だ。海の水が入って来たのだ。ごうごうと猛烈な勢いで海水が上がっていく。雨戸が外れて無い。障子も襖もない。暗闇の中をかすかにすかして見ると小山のような大きなものが流れて行く。何だろう、家だろうか、我が家は大丈夫だろうか、もし流されたらどうしょう、家が流されたら命はないたぶん死ぬだろう。ちらっとそう思った。「しっかりつかまえちょけよおー」父の声が聞こえる。
 黒いかたまりがいくつも水の上を流れて行く。「救けてくれー」遠くで泣き叫ぶ声が聞こえた。何か物につかまって流されているのだろうか。首まで水につかっていても別にえらいとも腕が疲れたとも思わなかった。何時間ぐらいそうしていたのだろう。玄関の上が中二階で物置になっていたが上がろうにも梯子がない、流されたのだ。どうにかしてようよう上にあがった。これで一安心。暗闇の中を真黒いものがいくつも流れて行く。何時の間にか風も次第に弱まっていた。東の空が明るくなったころには水位もだいぶ下がり流れも停っていた。土間に降り牛小屋の方に行って見ておどろいた。無事で居るではないか。
 あの濁流の中を体を浮かしていたのだろう。よかった。水につかった位置までは壁土が落ちたのでよくわかったが部屋の鴨居から下五十センチ位まで水に浸っていた。道が歩けるようになったので厚南小学校に登って行った。講堂でおむすびを御馳走になった。小学校の丘から眺める厚南平野の光景は見るに耐えないものであった。光陰矢の如しと云うが年月の経つのは早いものであれから五十年、半世紀、夢の中の夢である。今改めて、水害の犠牲となられた方々のご冥福を心からお祈りするのみである。西沖の堤防も立派なものが出来ているし、厚東川の護岸工事も大体終った様であるが、災害は忘れた頃にやって来ると云う、油断は禁物である。近年地球温暖化の影響で海面の高さが少しずつ高くなってゆくと云う、海抜〇メートル地帯に住む私達にとっては恐ろしい事である。
『厚南大風水害の思い出 ― 五十回忌追悼記念誌 ―』より