『厚南大風水害の思い出 ― 五十回忌追悼記念誌 ―』 94ページ
「風水害の想い出」西割 伊藤務
 昭和十七年の厚南風水害は、ここ流川交差点近くの私の家も、襖の把手まで浸水した。一夜明けて家に帰ってみると、家の前の田圃は流木と塵芥の山で前 の一九〇号線(当時は産業道路であった)道路には、流れ着いた藁屋根が乗っかっている状態であった。
 最初の仕事は遺体探しであったが、私の田圃と屋敷内にはなかった。穂の出揃った稲を押しつぶした流木、塵芥の後片付けには、何日も父の手伝いをさせられた。
 当時十七歳の私でしたが、当日の恐ろしさは今でも台風時期には思い出され忘れる事はない。
 夕方から猛烈な風で会社帰りの方が宇部方面から歩くというより吹き飛ばされるという感じで、屋根瓦や小石の飛ぶ中を小野田方面に帰宅されていた。
 その風の強さと、危険な為外に出ることも出来ず、今にも倒壊しそうな家の中で布団をかぶり、せめて頭だけは材木の下敷きにならぬよう息が出来ますようにと祈る気持ちで 、丈夫な文机の下に頭を入れ、耳を塞いでマンジリともしなかった。
 そうこうするうちに母が「土間に水が来た!」と大声で呼んだので飛び起きた。土間の水は見る見るうちに水量を増し、母と一緒に裏戸を引き開け、濁水をかけ分ける様にして垣根を超え、梅田川土手に辿りついたが、梅田川は水が逆流し、その恐ろしさに橋を渡ることが出来なかった。そこで川土手を黒石方面に走ることにした。現在の山本整形外科前の橋をやっとの思いで渡り、叔母である流川の白石宅(郁夫氏)に避難した。
 その頃は幾分風が弱くなったと感じた。ラジオも聞くことが出来ず、沖の方(低地区)であった災害の甚代大さは、夜が明けるまで分からなかった。
 水は上流から流れるもので、まさか下流からの海水が押し寄せるとは夢にも思わなかった。
 翌日から子供の私にも炊き出しの手伝いである。男という事で米俵の運搬をする事になった。今でも不思議な力が出たものと思い出されるが、それまで米俵(六〇キロ)を一人で肩に担ぐ事が出来なかったのに、その時は一人前にそれを担ぎ運搬した事でした。後日、米俵を担いで見ようと何度も挑戦してみたがだめだった。
 さて、今年はあの大風水害で亡くなられた方々の五十回忌にあたり、慎んで御冥福をお祈り申し上げますと共に、二度とこの様なことの起こらない様にすることが私たちの責務と考えております。 合掌
『厚南大風水害の思い出 ― 五十回忌追悼記念誌 ―』より