『厚南大風水害の思い出 ― 五十回忌追悼記念誌 ―』 119ページ
「水害に思う」東割 江本帰一
 厚南小学校の台地に上がると、目前に厚南平野は一望できた。春には菜の花、麦、レンゲ。秋には黄金の稲穂が波打っており四季とりどりのジュータンを敷いたようであった。
 厚東川大橋を渡るバスは松原のあいだをぬって走っていた。妻崎神社の杜と竹の小島はくっきりとよく見えていた。今は厚南は工業用地として又住宅用地として多くの工場、住宅が建ち並ぶ処となり一変した。
 一望できた厚南平野が一瞬の内に海面化したのである。時は戦時下でもあり今のような天気予報はなし。昼ごろより特に強くなった暴風で道を立って歩くのも困難なほどであった。妻崎神社にあった二抱もあった松の大木は、直径十五糎もあろうかという枝が折れて、敷地面に散乱するほどであった。
 宇部に出ていた姉は交通機関不通のため歩いて厚東川大橋を渡って帰ってきた。日も暮れていた。そのとき橋はすでに高波によって橋上は洗われていたという。
 早く寝ようということで床にはついたが寝つかれない。水だという声で物置の二階に上がった。
 最後に上がるときは畳は浮き膝の上まで水があった。異常な早さである。そこで一夜を過ごした。外は暗くて良く見えない。水は軒まできた様に感じられた。どこまでくるか不安である。そのうちに潮がすこし引きだしたので安心をした。東の空がにじみ始めたので階段を下ろして覗くと長屋にいた馬が母家の中にいるではないか。こみ栓がしてあったが浸水のためはずれカンヌキが抜けたのだ。見通しがよい。壁土、壁ごまえもない。長屋の東隣にあった農家と二階建ての倉庫もない。瀬をつくって流れたのだ。道路も瀬をつくって流れたところは、土は流れくぼ地をつくった。
 柱は浸水の状況を示す様に鴨居下五糎位下の処が流木等によるこすりで白くなっている。ああここまで水がきたかということを教えてくれる。藁屋根の家はそのまま流れ田の中に座っているものもあった。翌朝の潮は敷居の上まであがったがその後はあがることはなかった。
 家財道具は流され親戚に当分世話になることになった。濡れたものは沖の旦の縄田さんのご好意により沖の旦橋のところまで運び洗ったものです。そのとき父は病床に伏していが、市に議席があったので支援者に抱きかかえるようにして臨時市議会に出席した。その後まもなく帰らぬ人となった。その後懸命なる努力によって潮止めはでき前の厚南平野に還ったのです。
 終戦の年には油化(今の協和発酵)の爆弾による流れ玉にあい厚東川西岸堤防の一部が決潰して又潮が入った。そのときは日中でもあり沖の方から浸水するのがよく見えた。浅瀬に潮が満ちるようなもので急激でなくゆるやかなものであった。
 水害後は市議会議員候補は厚東川堤防の強化を強く公約され努力された。堤防も強化されたので前のようなことは無いと思うが再びないことを念願しているところです。
『厚南大風水害の思い出 ― 五十回忌追悼記念誌 ―』より