言葉の決闘

末松クレール

日本の時代劇の中で敵を殺す時に黙ってやる、というのはもう決まったパターンですが、フランスの時代劇において観客の期待を満たすためには、 剣と同時に言葉の刃で相手の矜恃を粉々にしなければなりません。敵の命を奪うだけでは不十分なのです。 名誉の方が往々にして命よりも大事なものとされたので、それを徹底的に潰さなければ敵を倒したとは言えない、という発想から来たものでしょう。 例えば、この百年、フランス人に途轍もない人気を誇るロスタンの『シラノ・ド・ベルジュラック』等は、議論しあう事が互いの言葉との決闘になる場面がしばしばあり、 それが特徴とも言える作品です。主人公のモデルであるシラノ(1619年−1655年)が実際に剣の名人であるばかりでなく、 言い争う時に誰にも負けたことのない口達者であったので、この様な話になったのではないでしょうか。 この作品の中では言葉が全ての原動力になっているのです。 シラノの敵と言えば言葉の敵で、大げさな語り口によって文章の音楽性やその優雅に流れるような調子を殺すモンフルリィという大根役者や、語彙の貧弱な子爵や、 言葉を出世の道具にして成り上がったおべっか遣いなどがいます。そういう敵を剣で刺す時にシラノは同時に諷刺詩で刺し倒すのです。 いやむしろ、シラノにとって決闘とは第一幕のそれの様に作詩の場なのです。シラノが決闘の時に即興で作る詩はバラッド、つまり3詩節(1詩節は8音節で韻を踏む8行のもの) と1反歌とから成り、それぞれの最終行は同一詩句の繰り返しが定型になっているものです。 その短い叙事詩が決闘の長さが合わされる事はあり得ません。逆に作られた詩が決闘の長さ、リズム、そして結末を決めてしまいます。

"帽子をみやびに さらりと投げ出し、
 足手まといの でっかいマントを、
 しんずしんずと かなぐり捨てて、
 拙者は剣を すらりと引ん抜く。
 伊達な姿は セラドン跣足(はだし)
 スカラムッシュのすばやい身ごなし、
 耳掻っぽじって 聞けやいちょび助、
 反歌の結びで ぐっさり行こうぞ!"
(『シラノ・ド・ベルジュラック』、辰野隆、鈴木信太郎訳、岩波文庫、58頁より)

 リズムと韻を合わせて戦い、詩の長さから事前に決まっていたところで敵を刺すという所は、お手柄というべきでしょう。 この場面だけでシラノを際立たせるには十分であるにも係わらず、次々に彼の見せ場が続きます。いえ、ただの一ヵ所だけは例外があります。 それはクリスチャンとの出会いの場面です。

 シラノの鼻は高過ぎてとても醜く、彼は大変なコンプレックスをその鼻に抱いています。彼は美しい従姉妹ロクサアヌに惚れているにも係わらず、 鼻のせいでその恋を打ち明けることが出来ません。一方ロクサアヌは一度見かけただけの美男子クリスチャンにほれていて、 シラノの青年隊に入る予定の彼を守る様にと(新人は苛められる事があるので)シラノに頼むのです。シラノは他ならぬ愛しい人の頼みなので、 それを引き受けてしまいます。ところが隊の面々の前で自分の勇気を見せたいと思っているクリスチャンの方は、 青年隊で固く禁止されている「鼻」という言葉を言おうとしていました。

"たった一言で万事休すだ! いや一言どころか? 気ぶりを見せた丈けでもだ、一寸でもなあ!ハンケチでも出してみろ、経帷子を着ることになるぜ!"(125頁)

 そう忠告された――何故ハンケチを出すのもいけないのか、それはフランスでハンケチを出すのは鼻をかむ時、という暗黙の了解があるからです――クリスチャンの前で、 仲間に頼まれてシラノは前夜の戦いを語り始めます。独自の隠喩を発展させながら、シラノは聞き手に魔法をかけ始めるのです。"月は中空に懸かって、明、時計に似たり、よ。 すると不意に、御丁寧にも何処かの時計屋が円い時計の銀側(ぎんがわ)を綿で拭き出したように雲がかかって来て、黒闇々の夜とぞなりにける、さ。で、河岸の通りは微光だに無しと来たろう。 ええ糞ッと思ったね!行く手は文目(あやめ)も分かぬ……"その瞬間、クリスチャンが口を挟みます。"鼻突く闇か"シラノは驚きのあまり巧く良く反撃できません。 "何処まで話したんだっけな、そうだ……ええ糞ッ……暗くて何も見えなかったと言ったのだ"(127〜128頁より)。辛うじて怒りを抑えたシラノはなおも話し続けますが、 クリスチャンは更に口を出し、自分の勇気を見つけようと頑張ります。

 クリスチャンは言葉の名人とは決して言えません。にも拘らず彼がシラノの喉元に何度も言葉の切っ先を突きつけることができるのは、フランス語の平凡な表現、 諺や決まり文句などの中に例の禁句がどんどん使われているからです。クリスチャンの表現を言いなおす事は不可能に近い事です。 他の表現を思いついてうまく反撃できる時もあるが、シラノはその言葉の決闘が激しくなるにつれてクリスチャンの攻撃を避ける事しか出来なくなります。 いきいきとした殴り合いの描写の中で、シラノは遂に打撃を表す擬音語"Paf!"を使いだします。それに対してクリスチャンは"Pif!"と答えます。"Pif!"は殴る音を表すのと同時に、俗語では鼻を差す言葉なのです。 横槍としては手厳しいものでしょう。(日本語に訳すことは不可能)

 どんなに立派な詩人であっても言葉を思いどおりに使う事は出来ません。この二人の決闘ほどに、言葉の抵抗力を見事に示している場面はないでしょう。 私達は言葉を勝手に使っていますが、それを私物化できる訳ではありません。言葉は変凡な人をも含めて皆のものです。とはいえ、言葉は独自の想像力を持っています。 詩人はその無限の資源を使用できます。鼻を突っ込む事さえすれば……。

(宇部短期大学言語文化学会『言語文化研究』、第一号、1999年3月、19-22頁)


Topへ