検閲とは

末松クレール

 日本にも、私の国にも、検閲の時代はありました。遠い昔ではありません。アルジェリア独立戦争の時は、私はまだ幼かったですが、 当時民主主義的な共和国だったはずのフランスでも、いくら事実であっても述べてはいけない事実があるということがわかりました。 戦争に勝つために国民は足並みをそろえて歩かなければならないという論法でした。例えば、拷問を糾弾したインテリや組合は厳しく非難されたことを覚えています。 もう、非国民や検閲の時代に戻りたくありません。それは戦争時代の検閲でした。しかし、検閲といえばそれは言葉を削除したり、新聞を禁止したりすることばかりではありません。 今の平和な社会の中では滅多にそういう大げさな形にはなりません。日常、検閲はもっと密かな形を取ります。例えば、地位の高い人が、それを利用して声を高くすること によって気の小さい人を黙らせる、これは日常の検閲の一種でしょう。 また文書をまとめる時、少数派の意見を切り捨てる。これも日常の検閲の一種でしょう。あるいは人の顔に泥を塗ることによって、その人が発言できなくなるようにする、これも日常検閲の一種でしょう。その他のやり方もあり得るでしょう。

 そういう小さな圧力によって、国民は一体になって、軍隊みたいに動けるようになるかも知れません。いつも混乱状態にある民主主義と違って、 独裁制の強い点はそこにあると思われますが、実は、逆に、独裁制の弱点もそこにあります。 独裁性が徐々に国民の積極的な支持を失ってしまうのはそのためです。だから、いくら検閲を厳しくしても戦争に負けてしまいます。

 人はいろいろです。立場が異なったり、歴史が異なったりして、思っていることは当然さまざまですが、それぞれが貴重です。人間社会の豊かさや活気は この多様性から来ています。一人一人の意見を尊重するのが民主主義の精神と言えるでしょう。規定や体制以前の問題です。 出来るだけ沢山の人の意見や発言を吸収し、反映する、自由な発想、自由な思想の場でなければ、研究者や教員であることは無意味になります。 自由は値切ることができるものではありません。

(時期および掲載誌不明)


Topへ