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フランス語におけるアラブの世界末松クレール2001年9月11日のテロ事件以後、必ずしもめでたくないアラビア語が突然日本人たちの言語のなかに侵入してきた。 たとえば、タリバン、ジハード、シャリア、モルラ、アヤトラー、ファトゥアなどである。 最後のいくつかの単語は幾人かの高位の宗教者(僧)たちの称号であって、1978年にすでに広く知られていたものである。 同じ衝撃はフランスでも起こった。西洋文明とアラブ文明の接触は一千年以上もの間起こってはいたものの。 詳細に調べればフランス語に導入されたアラビア語はおそらく数百にのぼることが分かるだろう。 この小文において私は、両文明がともに分かち合った歴史を証明するいくつかの単語を取り上げてみよう。 現在、西ヨーロッパを襲っている恐怖を表す語は、最初は存在していなかった。
砂漠を走るあの馬上の戦士たち、彼等を指呼すべき語を人々は知っていただろうか。
まず宗教的解釈の時代に人びとは聖書の内にこの呼び名を求めた。アブラハムの妻のサラにちなんで、
サラセン人(Sarrasins 仏、Sarracens 英)と呼ぶか、同じくその侍女アガルにちなんでアガレーヌ人と呼ぶか、
それともその息子に由来するイスマエリトと呼ぶか。――しかしそれはむしろ、マホメタン(マホメットの信徒)あるいは異教徒(infideles*1)などと呼ばれていた。 これは純粋に否定的な定義であって、時代の文化的無知の程度を暴露するものである。ほとんど絶え間ない戦闘状態のために、交流は助長されることはなかったけれども、
戦闘のない期間には別の形の関係が発達する。すなわち商業の、技術の、芸術の、学問の、農業の関係である。このことを証拠立てるのは、
ヨーロッパ諸語の中に入った次のような単語である。 他方、地中海地帯には、両文化の出会う地点となり、重要な普及の役割を担った若干の地域が存在する。 たとえば、近東におけるキリスト教徒たちのいくつかの居住地、シチリア(シシリー)のアングロ・ノーマン王国、マルタ島、ロードス島、アンダルシア―― そこでは格別に寛容な雰囲気の中でモザラプ文化(イスラム教徒支配下のスペインで、政治的服従を条件に信仰を許されたキリスト教徒たちの文化)が発展する――など、 である。少しずつ異文化にかかわる諸概念は洗練されていき、この文化に特有の用語が採用され、宗教ないし政治の事柄を語るようになる。変化がおこりつつあるようである。 例えば、 18世紀には『百科全書』および記述的学問と共に、ついで19世紀にはロマン主義とともに、地方色への関心や異国趣味が高まり、そのおかげで、語彙は更に建築や民族誌にかかわる術語を獲得して豊かになった。いくつかをあげるならば、たとえば、 <Djellaba>ジェラバ、すなわち北アフリカで男女ともに着る長袖・頭巾付きの長衣を意味する語で、1870年の導入。 けれども他に独特の地理学上の術語がある。例えば、<Qued>ウェッド、サハラやアラビアの砂漠地域の河谷で、降雨時の他は水流はない。 <Djebel>山、山地。北アフリカで山の名に用いる。(1870年) フランスが北アフリカを植民地化し始めると、アラビア語はフランス軍や植民者たちのフランス語の中に大量に流入した。 けれどもそれは、これまで導入されたアラビア語と本質的に違う言葉だった。もちろん学術語は増え続けるが、 その代わり日常生活で使われるアラブ語は一貫して隠語へと移行していくのである。アラブ語、とりわけマグレブのアラビア語は、 いまやフランス人の日常的隠語の大半を構成するものとなっている。こうしてフランス人たちはまったく何の文化的魅力もない人里はなれた場所のことを、 「なんというbledだろう」と言うし、犬のことを「kleb」と、田舎では医者のことを「toubib」と、ガキ大将の少年を「cald *4」、 散らかった部屋のことを「souk」、お祭り騒ぎのことを「nouba」、いっこうに終わろうとしない仰々しい挨拶の交換を「salamalecs」などと言うのである。 また、五十歩百歩のことは「kif-kif」と。 数え上げていたらきりがない。いわば植民者たちの被植民地化であり、植民地化された人々の報復である。 が同時に、これがアラビア語のほとんど隠語へと移行してしまうという事実には、それがフランス語の中に入った頃、 当時のフランス人たちが抱いていた被植民者へのさげすみが表れているとも言えるのではないか。 これは現代のフランス人たちの記憶からかなり薄れつつある認識ではあるけれども。 こうしてフランス人たちは、毎日、それとは知らずにアラビア語を話しているというわけである。 (宇部短期大学言語文化学会『言語文化研究』、第三号、2002年3月、42-44頁) |
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