「あとがき」に代えて

江木 鶴子      

   2003年2月22日、末松クレールさんは57歳でこの世を後にしました。 最初の入院をした時からわずか2年後のことでした。 体の不調、特に目が見えにくいこと、そのために本が読みづらいと2000年の秋頃より訴えていました。 その原因が脳腫瘍と分かったのは、2001年2月でした。およそ半年間の入院治療をして、その年の9月にみごとに復活を果たしました。 しかし、2002年6月25日、彼女は自分が重い病気であること、そのために自分の満足のいく講義ができなかったこと、またこれ以上講義が続けられないことを学生に謝罪し、 自らが最後のフランス語の講義としました。この講義を受けた学生達は、涙を流しながら話を聞き、彼女を見送ったそうです。その3日後に再入院しました。

   クレールさんが最後の講義をした次の日、私は自宅にいる彼女を尋ねました。 台所の椅子に寄りかかって、彼女は思いつめたように何かを言いました。 私には良く聞き取れなかったので、「何て言ったの?」と尋ねると、彼女はそのままで空を見つめながら 「私にとってフランス語は宝物だから、絶対に失いたくない!」と静かに、しかし気迫のこもった声で言いました。 私はその迫力に圧倒されながら、「うん、日本語もね」と答えると、彼女はやっと私の方を見てにっこりと笑いました。 彼女はこの言葉の通り意識が無くなる寸前まで、正確な、悲しいほど正しい日本語で私と話をしてくれました。

   この20数年間、私が何か楽しい時を過ごしている時、そこに必ずクレールさんがいました。 彼女の多彩なパーソナリティは、多くの人の心を豊かにしてくれましたが、なかでも彼女が言葉で表現する世界は私を魅了し続けました。 彼女独特の言葉で語られる世界はいつも新鮮で人の心奥深くに届き、しばしば新しい発見をさせてくれたものでした。 それらはクレールさんを知る我々の宝物でした。"宝物を失いたくない"という思いがこの本となりました。

   本書『Claire−人と思い出』は、クレールさんが文字で公にした言葉を可能な限り集め、 彼女と多くの時間を共にし語り合った人々の言葉を集成したものです。 研究者としての彼女の論文は、『末松クレール論文集』として別に出版しました。 本書には、論文のなかから2つを選び末松壽氏に翻訳して頂きそれを掲載しました。 クレールさんは真摯な研究者であると同時に、妻であり2人の子供の母である家庭人でした。 また誠実な情熱と献身を併せ持つ女性であり、我々友人にとってはユーモアと真率さを合わせもつ人間でした。 この様なクレールさんの多面的な姿をできるだけそのまま残したいという我々の希望で、年譜の作成を末松壽氏にお願いしました。 本書に掲載された数々の写真もこのような視点から選ばれています。

   2002年の年末、クレールさんに「春になったら鳳翩山に行こうよ」と誘いました。 そこは自然をこよなく愛する彼女が最も多く足を運んだ場所です。 いつもだったら、「ホー、いいね」という彼女がその日は違いました。 彼女は涙して約束してくれたのです。「どんなことをしても連れていってあげる。 私は諦めていないよ」という残酷で強引な私の求めに応じて。しかし彼女には約束を果たせないことがすでに分かっていました。 2003年4月上旬、私は彼女の写真をもって彼女の家族と一緒に東鳳翩山に登りました。 春とは思えないような青空の美しい日でした。表紙の写真はその時頂上から見えた山口の山々です。 裏表紙には、彼女の愛犬ポチを載せました。ポチはクレールさんが亡くなるちょうど1年前に東鳳翩山で行方不明になりました。 なぜか、今、クレールさんとこの山のどこかで寄り添っているような気がしてなりません。

   末松クレールさんを偲ぶ多くの方から文を寄せて頂きました。 特に、末松壽氏には、論文の翻訳、年譜の作成、論文等の一覧作成などなど、編集委員の数々の要求を快く受け入れて頂いたうえに、 フランス語の全く分からない編集委員を全面的に支援して頂きました。 氏の援助なくば、我々の思いはこの様な形として達成できなかったことでしょう。 その他、多くの方々からお力添えを頂きました。心よりお礼申し上げます。

   『Claire−人と思い出』の編集作業は、未知の末松クレールを発見する作業でもありました。 新しいクレールを発見する驚きと喜びはひとしおで、それはまた喪失の心を癒してくれるひとときでもありました。 本書『Claire−人と思い出』を通して、それぞれの思い出の中で生きるクレールさんをより確かなものとして共有できることを編集委員一同大変嬉しく思います。 『Claire−人と思い出』は我々の新たな宝物になりました。

   

2004年2月                     

『Claire−人と思い出』編集委員会
江木鶴子      
岡住留美      
(代表) 堀田雅子      
千々松康      
吉田信夫      

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